男鹿半島を吹く風は……暮しの風景

 御役屋の松 

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海の幸&森林資源に恵まれた男鹿は、秋田藩の大事な財源でした。文化11年(1804)
9月には郡方御役屋(ぐんぽうおやくや・後に船越小学校↑として使用)が置かれ、庭には
この松が植えられていました。現在もなお枝を伸ばして当時を憶わせます。
船越小学校はすでにありませんが、わたしもかつてここに通学しました。
来賓室や階段など、それはそれは美しかったですよ。(Tomoko)

P.S. 小学校の裏は八郎潟潟口になっていて、そこには石油探査船・白竜号が
停泊していました。それは長い期間(何年間?)でした。

白竜(White Dragon)の由来:
八郎潟に住む八郎太郎は白竜の化身。夜になると八郎太郎は天空を駆け、
田沢湖に住む辰子姫に逢いにいきました……

  

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Photo by Tetsueko

 ここは船越公民館の正面玄関。「お役屋の松」がどんと構えています
佐竹藩主は、毎年鷹狩り、鹿狩り等で男鹿に猟遊され、その度に船越に宿をとった
と記録されています。船越地区の「お役屋、代官所」を中心に、街道、町並みが
整備充実されたと推察されます。
  (Tetsueko)(写真は現在)

  


男鹿は豊かな森林と海を持ち、秋田藩の大財源地であり、隠し財産的要素もあった。
ここには〈郡方御役屋〉が置かれ(1804〜1818)、貢租のチェックや、
異国の船からの防備にも当たった。この松は当時、御役屋の庭に植えられていたもの。

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Photo by Tetsueko

〈貴栄山・円応寺えんのうじ

月見れば水のふるさと思うかな  静薫

船越出身の俳人・貝塚静薫が大正末年に詠んだ句。八郎潟を有する船越には露月などの
著名な文人がしばしば訪れている。荻原井泉水が句会を開いたのは昭和6年6月。

黒衣の歌人粟津祐逸は;

 はろばろと海につながる潟口の 
 群れだす鴨に落目軍かがよふ  

  

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